2009-08-09

孤独死

まぁニュースで、この言葉が走るわけです、ある人の死に付いて。違和感を感じますかね、やっぱり。べつに誰とも連絡が取れずに亡くなってかわいそうだとは思わないとか、関心がないということはありませんよ。どっちかというと、関心はあるんです。やっぱり淋しい話です。

でも、業績のある人の死ならば、べつに「孤独死」とかいう言葉は添えられなくても良いはずなんです。皆が好きだったその人のある日の姿をたくさん見せてあげて、「淋しいですね、逝ってしまって」って素直に言うので良いかなと。でもあえてそういう事を書き立てて、「かわいそう」という様な気運を演出している。まずそこに違和感ですね。

もう一つの違和感は、「死って、もともと孤独なものではないのかな」という想いがどこかにあるからです。『死とは生の中に含まれる』とはある文学で読んだ覚えのある行なのですが、それは突き詰めていくと、「個人の問題、または出来事」ということになるんだと思います。死ぬ事自体は、やっぱり『誰にも解する事の出来ない、絶対的な個人的な事象』なんだろうと感じている訳です。もちろんそこに至る過程において、他人とのやり取りとか、心のふれあいがあれば死に行く人の心は安らぎ、救われるのかもしれません。そういう見方に立ったときに、故人がそれを出来なかったとするならば、「孤独な最期」なのであって、やっぱり「孤独死」という事はは当てはまらない。「孤独死」っていう言葉を、「哀れみ」の文脈でつかわれる事に、故人に対する敬意を感じ取る事が出来ない訳です。

こういう違和感は、きちんと記したいと思って、ここに。

5 件のコメント:

taka さんのコメント...

1人1人死生観というのは異なるもので、例の方が亡くなった状況や、AVからタレントになった方の事例について、孤独だと考える人もいるだろう。
それ自体には口を挟む余地がない。

ただ、そう思っているのは構わないのだが、口に出したり、まして大衆の総意であるがごとく配信するはどうかという点では賛成かな。

これはもちろん想像でしかないけど、華やかな世界で生きてきたならば、むしろ死にざまは他人に知られずヒッソリと(孤独に)最期を迎えたいという人もいるだろう。
死にざま=(絶頂時とはかけ離れた)きれいな姿ではない、と考えていれば尚更かもしれない。

だとすれば、誰にも看取られないことは、その人にとって喜ばしいことであり、いらぬ哀れみは無用ということになる。

いずれにしても自らが死を確信したときに、自分は幸せだったと思えるかどうかに尽きる。

どんなに金持ちでも身内の醜聞を聞かされながら最期のときを迎えれば悲しいだろうし、人生の大半は辛かったとしても、子供や生まれたばかりの孫が駆けつけてくれたことを人生の幸せと感じるかもしれない。

死ぬその瞬間にどう思えるか。
人間なんてそのために生きているんだと思うけどね。

Romiko さんのコメント...

ICE 9さんに全く同感です。 
死は常に個人的な(孤独な)ものなのに、メディアも何かの流行のように「孤独死」と書き立てなくてもいいと思うし、 私は死は生の通過点に過ぎないと思ってます。

ybkz55 さんのコメント...

>takaさん
そうだね、一人ひとりの死生観については、僕も基本的には自由だと思ってます。それには口は挟みません。ご指摘の通り「マス」の名の下に「みんなが思っている」風な配信に違和感を感じたということです。その人が寂しい想いをしないで最後を迎えたのであればそれでいいというだけなんだけど、まぁそれは誰にもわからないよね。

>Romikoさん
備忘録的に書いたエントリなんですが、読んでいただいて恐縮です。似たような感覚を持っている人が他にも居るというのが解って安心しました。

Romiko さんのコメント...

病院で七転八倒した後亡くなるより、自宅でひっそり逝くのも悪くないかと思うようになりました。

ybkz55 さんのコメント...

>Romikoさん
そうですね、終わり方は色々なあり方がありますね。しかしながら、「選べるかどうか」はちょっと難しさがのこるかもしれませんね。いずれにせよ、自分が望む方向に行ってほしいものですね。